東京地方裁判所 昭和29年(ワ)2387号 判決 1959年4月30日
荒川信用金庫
事実
本件手形の所持人たる原告荒川信用金庫の手形金請求に対し、被告張替寅男は、本件手形は何れも訴外霜鳥晴康が被告の印鑑を盗用して偽造したものであるから、被告にその手形金支払義務はないと争い、その理由として次のように述べた。すなわち、右霜鳥晴康は訴外丸和ベニヤ工業株式会社の代表者であるが、昭和二十七年の半ば頃長男霜鳥裕康の友人である被告の息子張替時夫を通じて被告に対し手形の借り入れを申し込んで来たので、被告は、手形の支払期日の前日にその手形金額を被告方へ届ける約束の下に、被告名義の約束手形を振り出して霜鳥晴康に貸与した。そして同年秋頃から一箇月五枚位、金額は十万円から二十万円位、期日は一、二箇月先のものを振り出して来たのであるが、霜鳥晴康は昭和二十八年十二月十四日までは期限に間違なくその手形金を現金で持参して来たので、問題はなかつた。しかし、同月十五日になつて取引銀行である協和銀行足立支店から金額十三万円の約束手形が不渡りになるとの通知があり、調査した結果、霜鳥晴康が被告の知らぬ間に被告名義の手形を振り出したのが二十数枚、金額にして合計金三百万円になることが判明したのである。被告が霜鳥晴康に頼まれて約束手形を貸した当初は、同人の持参した約束手形に署名捺印をして渡してやつたが、その後次第に同人が手形要件全部を書いて来て被告の押印のみを求めるようになつた。それで被告は振り出した手形の支払期日をカレンダーに記入しておき、霜鳥晴康が現金を持つて来るたびにこれを消して来た。そのメモは昭和二十八年十二月十四日で終つているが、本件手形は何れも被告が振り出した覚えのないものである。思うに、霜鳥晴康が手形を借りに来たときは、被告はいつも同人を奥の間に招じ入れ、店に来客があれば印鑑を卓上に置いたまま中座して店の用を済ませる間二十分位も席を空けることが間々あつたので、その間に霜鳥晴康は持参した約束手形帳に大急ぎで被告の印鑑を押印したものである。なお被告は霜鳥晴康からは何らの謝礼を受けておらず、全くの厚意で手形を貸してやつたものであり、又、被告と霜鳥晴康との間には、他に何らの取引がない。以上のとおり、本件手形は全部霜鳥晴康が被告の印鑑を盗用して被告名義で作成した偽造手形である。
理由
証人霜鳥晴康の証言によれば、本件各手形の作成に関しては、同証人又はその息子である霜鳥裕康が被告の妻である張替秋代又はその息子である張替時夫から被告の印鑑を借り受けて、白紙のままの手形用紙の状態の振出人署名欄に右印鑑を押捺し、後に霜鳥晴康がこれに所要事項を記入して本件各手形を完成したというのである。又証人張替秋代の証言によれば、霜鳥晴康から手形の貸与を求められた際、被告は「きちんとして下さるならよいでしよう。」といつて融通手形を書いてやつたが、その最初は昭和二十七年六月頃で、月一回位金五万円ないし十万円位のものを振り出したが、段々日が経つにつれて増して行つて、最後に判を押した昭和二十八年九月頃には金額は最高二十万円位であつた。初めの一、二回は被告が手形を書いて判を押していたが、その後は同証人が被告の印鑑を捺した右印鑑は被告の事務机の上にスタンプ台やゴム印と一緒に入れてあつた。同証人も来客があるとその相手をするので、つい霜鳥に手形を書いて貰い、判だけ同証人が押した。被告は多忙のため何時外出先から帰つて来るかわからないので、後には先方(霜鳥)で書いたものへ判だけ捺して貰うようになつた。本件各手形は同証人は見たことがなく、筆蹟は被告のものでも息子の時夫のものでもないというのである。
これらの証拠から認められることは、本件各手形は被告が自ら押印したものではなく、被告の妻秋代が押印したか又は霜鳥晴康(もしくはその子裕康)が右張替秋代から被告の印鑑を借りて本件各手形の表面に押捺したということ並びに被告の印鑑は被告からその都度承諾を得なくとも被告以外の者がこれを使用しようとすれば、できる状態にあつたということである。
そこで右張替秋代が被告に代つて右印鑑を使用して本件各手形を作成する権限があつたかどうか、又は同人が被告の印鑑を霜鳥晴康等に使わせることを被告が予め承諾していたかどうかの点について考察するのに、記録上被告が張替秋代に右権限を与えたり又はその印鑑を貸与することを被告が予め承諾していたとの証拠はない。却つて被告本人の供述によれば、被告は初めは自身で手形を作成し、その後は被告が承認して個々の手形を指示して張替秋代に押印させたことがあるが、それ以後殊に昭和二十八年十月以後の手形は全く知らず、本件手形も全く被告の関知しないものであり、一般的に、又は被告の不在などの場合に、張替秋代或いは張替時夫に対し、霜鳥晴康に貸与すべき約束手形を被告名義で振り出したり又は被告の印鑑を同人等に貸与することを承諾していたことがなかつたことが認められる。従つて、本件各手形は振出人たる被告名下の印影が真正なものであつても、被告の妻張替秋代又は霜鳥晴康が無権限で、被告の印鑑を押捺して作成したものであると認めるべきであるから被告の関知しない偽造の手形であるといわなければならない。
よつて、その振出人たる被告に対する原告の本訴請求は失当であるとしてこれを棄却した。